魔の底流に引きずり込まれる

岩魚の聖域を迎える　　　　岩魚に誘われる魔の底流

2日目に張ったテント場から空身で竿を振りながら遡行して６時間でF1を迎える。ここは翌日に挑むことになる滝、これを迎えた時点で、遡行に専念しなければならない。群れを帯びているはずだが餌を投じても全くアタリが無い。ところが、私の横から毛鉤を打つ中橋さんの針にあっけなく魚止めの主が食いつく。

魚止めの主の顔を拝んだところで、私の釣り欲は消失した。滝壺の直径が約６ｍ、水深は足が付かないだけ深い。そこを向かって上流、右岸から巻いて滝頭を上ることにする。まず最初に滝壺の中へと入ると、見かけよりも渦巻く力が強く、壁面にしがみ付くものの腰が浮き上がり剥がされそうになる。

滝の落ち口付近には良いステップがあり、滝頭まで３ステップを踏んで上がれると予想した。顔に水を浴びながら３ステップ目に手を掛けた時、上りきることが可能と判断、何故かこの時、今上りきることもないと明日に備えて断念し下降に転ずるが、顔面に当たる水の勢いに耐え切れず次の瞬間釜の中へ落ちた。

とっさに平泳ぎで２〜３回手足を動かすが、渦巻く水流の力があまりにも強く、抵抗しても無駄と判断し泳ぐことを止めた。一瞬、脳裏に「死」が横切るもの、次の瞬間、仰向けになり背泳ぎに転じ、流芯から両脇に渦巻く方向を目指し自分だけの時が始まる。時間にすると数分だっただろうか、泳ぐと言うより呼吸することに専念すること無心に耐えた後、下流で待っていた中橋さんが私の手を引き命拾いする。距離こそわずかにしても、複雑にうごめく釜の中は地獄・・・

最後の足掻き

中橋さんが何度か溢した言葉は「生きて帰れたら良い想い出」になりますね・であった。この隠源に入って間もない地点で苦労して高巻いたところを、もう一度折り返すことになるとは・・・残念ながら未熟だったことが試練となった。

バリエーションどころではない、釣りに夢中になってタイムリミット。時間も僅かとなって、最終日はピストンで来た道を戻ることになる。初日に高巻いた箇所を泳げば早く楽に降ることができると中橋さんに伝えた。それもラッコ泳ぎで、簡単ですよと事前にほどよく流れる淵で中橋さんに習得してもらい、問題の難所を最初に私が降って次いで中橋さんが挑む予定でいた。

再び水に巻かれる

谷で水死する瞬間はこれなんだと。その瞬間は突然にして再び訪れた。命拾いした者だけが刻む教訓として述べるなら、利口な振りをせずに時には渦中へ飛び込み自然の力を知るべきだろう。

ザックを背負い右手にザイルを持ち、では行きますよと流れ込みに身を投ずると、ゴックンッと、底流が体を引きずり込もうとするが、ウェットスーツに着込む体と浮力のあるザックを背負っているのが幸を副うし、一端は巻き込む左岸へ向かって表層を漂う。

これで突破できたと思ったが、次の瞬間、下流へ向かう流れとは逆行して、流れ出し流芯へ向かって引き戻される。全力で手足を動かすが自然の力の前では無力。その流れ、空間こそは短く狭いものの、思い通りになることなく、複雑にうごめく白泡の中で振り回される。流芯に引き戻されるたびに、必死になって両岸の壁面を足で蹴り飛ばし芯から遠ざかるが芯へ引き戻されてしまう。流れの底から湧き上がるように白泡がサラサラと一面に吹き上がり、ザックを背負う私の体は渦中でクルクルと回される。最初のうちは中橋さんの姿が目に映り「大丈夫ですか！」と言う声が聞こえるが、次第に自分の世界へと引き込まれ、水と対義する長い時間が始まる。

生殺しとはこういう場面を指すのか、それは短くも長い時間であった。死と対議するうちに中橋さんの姿と声が遠ざかり、次第に意識が無になってゆく。だが、こんな所で死んでる暇はない。そんなことを思っている内に、とうてい乗り越えることの出来ないオーバーハングした岩肌を前に四苦八苦する中橋さんの姿がスローモーションのように見えてきた。そして、私の心に「責任」という一言が浮かんだ・・・右手に持っていたザイルが流芯で漂う流木に絡み、次いで右足へと絡んだことでザイルから手を離す。

それから何度か壁面を足で蹴り飛ばした後、ようやく流れに乗って脱出に成功。自分の体が流されて間もなくしてザイルが流木と共に流れ出し、急いでザイルを回収して中橋さんのもとへ行く。

今回はザックを背負っていたが、空身で溺れる時にいつも行うのは背泳ぎだ。更に最悪な場面に遭遇した蔡の方法として、電柱一本もある太い流木が釜の中で一本立ちするほど凄まじい場面では、その底流に自ら向かって、底流に乗って底へと向かい、足で底を蹴り上げ突破口を見出す・・・しかし、これだけは絶対にやりたくない・・・

野生の大岩魚を手にする中橋さん。重たい荷物背負って隠源に来たかいがあった。

岩魚の聖域を迎える　　　　岩魚に誘われる魔の底流